2016年06月11日(土)

「なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかた ちと同じ姿にあらかじめ定められたからです」ローマ8:29


信仰人生で、「なぜ?」「どうして?」という事態が起きる。何が
どうなっているのかわからない。苦しいばかりだ。しかし、エレミ
ヤ29:11にあるように、神は私たちに決して災いを与えられない。
それは、平安と将来と希望のためのものだと。その渦中ではわから
ないが、ずっと後になった時に、パズルがつながるように、神のご
計画を知ることになる。

「くじは、ひざに投げられるが、そのすべての決定は、主から来
る」とあるように、すべての出来事に、神の支配と主権がある。
「雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちること
はありません」。目の前の出来事は、父の許しの中で起きている。
理解を越えた、わけがわからない事に遭遇する事があるけれど、
ローマ8:28の通り、すべてを益とされる。そこに神の関与がある。

しばしば自分を中心に置き、自分が思う通りの益、自分にとっての
最善が成ると勘違いするが、そうではなく、神が私たちのために備
えて下さる最善だ。それは、自分の思い通りになるのではなく、
「御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められた」ように、御子の
かたちへと変えられる最善だ。

自分の弱さや失敗があったとしても、そこで「万事益」の信仰に立
つ時、神が働かれ、御子のかたちへと変えられるように益とされる。
主に似せられて行く。そこに神の栄光が現されて行く。

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万事益の約束がある。しかし、自分軸の自分が思う万事益となるの
でなく、御子のかたちへの万事益と変えられる。何と光栄なことだ
ろう。しばしば自分の思い通りではない。しかし神の栄光が現わさ
れる益だ。神視点に立つ時、見えて来る。