2016年07月12日(火)
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主は、十字架の死の前に「父よ、時が来ました」「子の栄光を現し
て下さい」と祈られた。この上ない残酷で凄惨な死に、栄光が現れ
るようにと。十字架刑など、一見、敗北、悲惨、無力にしか見えな
い。「どこが栄光?これが神の子?」と惨めで哀れな姿、その苦し
みが神の栄光である事を、主は知っておられた。
両手両足を釘づけられて、さらされた姿で何の抵抗も出来ない。な
されるがままであり、これこそ無力の極みだ。しかしこれが栄光だ
と言われている。「栄光」と聞くと、大成功、大勝利、喜ばしい事、
失敗の反対を思い浮かべないだろうか。受験は合格、畑は豊作、子
供は良い子、立身出世、商売繁盛、家内安全、夫婦円満、こういう
事が栄光だと思っていないか。
しかし、十字架刑が「わたしの栄光を彼らが見る」「わたしを栄光
で輝かせて下さい」と言われた「栄光」であった。大成功だけが栄
光なのではない。どんな状況でも、それが悲惨なものであっても、
又、失敗であっても、そこで、あなたが主に従って行くなら、神は
あなたを通して「栄光」を現わされる。
姦淫と殺人罪はどうだろう。栄光の正反対だ。しかし、真摯に悔い
改めたダビデは、素晴らしい栄光のために用いられた。ヘブル11章
の信仰の人に名を連ね、ダビデの詩編にどんなに私達は慰め、癒さ
れ、引き上げられただろう。どんな悲惨な状況であれ、そこで自分
自身を明け渡して、御霊の導きに従おう。主のあわれみは尽きない。
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自分で頑張るときは、いつしか成功、勝利を目指している。そして、
そこに不安と恐れを感じる。主にすがって生きる道は何と幸いだろ
う。無力にも主の力があり、失敗には赦しが与えられている。
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