2016年11月11日(金)

「人の歩みは主によって定められる。人間はどうして自分の道を理解できようか」箴言20:24 



私たちの人生は、「主によって定められる」と御言葉にある。決し
て自分の思い通りになるわけではない。いや、思い通りにならない
方が多い。 「人間はどうして自分の道を理解できようか」とのよ
うに、突然、思いもよらない事が起きる。全くの想定外の事態だ。
私たちは、現在が見えるだけで、将来は全く見えない。

しかし、今、自分には見えないが、歩みを定めておられる、主がお
られると信じるなら、私たちはどんなに平安に人生を送れるだろう。
何もかもが、自分の思い通りになるわけではないが、しかし、自分
の願いや気持ちを知っていただける。それを受け止めてもらえて、
自分の思い通りではないが、最善を成して下さる主だ。だからこそ、
信頼してお委ねできる。何と平安だろう。

アブラハムも主の示しに従い、どこへ行くかを知らずに、出て行っ
た。先の事は全くわからなかった。しかし、一歩、一歩と示されて
歩んで行った。アブラハムの生涯には、色々な出来事があった。時
には手痛い失敗もあった。しかし、先は見えないが、目の前の一歩
を主に従い、導かれ、祝福され、大いなる者とされ、ヘブル11章の
信仰の人々にその名を連ねている。信仰の生涯を全うし、主に喜ば
れた。

私たちには、目の前にいつも二つの道がある。自分の好きな、思い
通りに歩む道と、主の御心の道だ。アブラハムのように、御心の道
に歩むには、自分を捨てる必要がある。しかし、それは主に喜ばれ
る、信仰によって歩む道だ。そしてどんな想定外の事が起きようと、
平安のある道だ。自分主導でなく、主によって導かれているのだか
ら。
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思い通りを願うので、こんなはずではと抗い落ち込む。なかなか明
け渡せない。だから明け渡せたときには主に全てをお任せして従っ
て行く全き自由を経験する。主にある自由、平安の中を歩んでいた
い。