2017年02月09日(木)

「私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです」ローマ7:21 


原理と言うのは法則の事だ。法則とはどんな時にも、例外なく当て
はまるものだ。一つでも例外があれば、法則にならない。私たちの
中に原理があると言う。善をしたいのに、悪が宿っているという原
理だ。善をしたいのに、実行できない。敵を愛せよとあるが、愛せ
ない。敵のためになど祈れない。傷つけられると決して赦せない。

何とかしようと頑張るが不可能だ。それは悪が宿っているからだと。
罪と死の原理の中にいる。それを徹底的に経験したパウロは「私は
惨めな人間、誰がこの死のからだから救い出してくれるのか」と叫
んだ。「誰が」と言い、自力では不可能だと行き着いた。そこで解
決を見た。

主は、「命の御霊の原理」の中に私たちを置かれ、罪と死の原理も
現存するが、そこから解放して下さったのだと。御霊に導かれる時、
悪が宿っている原理の中いはいない。そのため自力でなく、御霊の
力によって、御心を行なって行ける。人を赦したり、敵を愛する事
が御霊によって可能だ。ここに大きな希望と救いがある。そのため
の主の十字架だ。

そしてこれらは、主が取り扱い、少しづつ少しづつ自分が変えられ
て行くことを経験して行く。確かに変えられて行く。いつしか愛せ
なかった相手を愛する事ができるようにされる。時間もかけながら、
主は導かれ、赦せなかった相手が赦せるようになって行く。神のみ
わざにあずかって行く。
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御言葉に従おうとすれば、昨日はできても今日はしたくない自分に
気付く。それが例外の無い人の原理なら認めることは恥ずかしいこ
とではない。何度でも主に助けを求め、そのつど聖霊様の導きに自
分を明け渡していこう。