2017年11月11日(土)

「互いの栄誉は受けても、唯一の神からの栄誉を求めないあなたが たは、どうして信じることができますか」ヨハネ5:44



私たちの肉には、人に認められたい、ほめられたい、評価されたい
という強い欲求がある。小さな子供は、絵を描いたり、工作を作っ
たりした時、又、事あるごとに、親に「見て」「見て」と注目を集
める。自分を見て欲しい。私たちの、人に認めて欲しい、褒めて欲
しいという欲求は深いものがある。

そのため、人の評価を得られない時、多大なストレスとなる。この
部分に、サタンは巧妙に誘惑して来る。主が荒野で誘惑を受けられ
た時に、サタンは、神殿の頂から身を投げるように誘惑した。御使
いが助けに来て、皆の前で、素晴らしいヒーローになれると。世界
中の注目の的になり、大人気を博した上で、人々を救えばいいでは
ないかと。人々は大喝采だと。

人々から注目を浴びる快感は大きな誘惑だ。誰しも、人の前で良い
格好したいし、賞賛を受けたい。主にも来た誘惑だ。私たちにも、
サタンのこの誘惑が来た時に、御霊が気づかせて下さるように。人
の評価を求めるところから、神の歓心より人の歓心を得ようと方向
が大きくずれる。そこに体面、虚栄心、プライドが、むくむくと頭
を出してくる。そして人が気になって仕方がない。

神から目を離すと「比較」でしか自分を量れないので、人が基準に
ならざるを得ない。その中で劣等感と優越感にがんじがらめだ。主
に焦点を合わせる時、自由にされて行く。まず、人の賞賛を求めて
いる自分に、気づくことから始まる。気づく時、祈りに持って行け
る。そして、その祈りは答えられる。

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人が主に向くなら、おおいが取り除かれると言われている。主は御
霊であり、主の御霊のあるところには自由がある。真の自由は主の
内にある。人との比較に気づける事が感謝で、絶えず主のもとへ行
ける。主に向く時、横から縦へと視点が変えられる。