2018年09月11日(火) 「あなたがたは、キリストのために、キリストを信じる信仰だけでなく、キリストのための苦しみをも賜ったのです」ピリピ1:29
「あなたがたは、キリストのために、キリストを信じる信仰だけでなく、キリストのための苦しみをも賜ったのです」ピリピ1:29
クリスチャンは、時に、信仰ゆえの様々な試練がある。信仰のため に苦しみを受ける。だが、そうでなく、しばしば自分の至らなさの ゆえに、欠点ゆえにトラブルを起こし、周囲に迷惑をかけて苦しみ を招く。これは信仰ゆえの苦難ではない。信仰以前の問題だ。 誰でも、礼儀に反する事をするなら嫌われるし、自己中心に歩めば、 問題が起きる。しかし、クリスチャンという事で苦しみを受ける事 がある。信仰している事で悪口を言われたり、笑われたり、仲間は ずれにされたり、嘲られたり、何もしていないのに非難されたり、 不当な苦しみを受ける。 「そしりと苦しみを受け、捕らえられ、財産が奪われ」・・今の時 代なら、信仰ゆえに、即、命を取られる事は無いかも知れないが、 辛く当たられ、馬鹿にされ、村八分にされるような、正当でない苦 しみを受ける。しかし、それがキリストゆえの苦しみなら、恥じる 事はない。むしろこの事のゆえに、落ち込むのでなく、喜べと。 喜び踊れと。そして神を崇めるようにと。「喜びなさい。喜びおど りなさい。天においてうける報いは大きいのだから」と。その人は、 たとえ主のために迫害され、辱めを受け、いやがらせを受けたとし ても、主との個人的な関係があるので、幸せな人だ。御霊の喜びが 与えられる。 迫害や苦しみの中にあっても、喜び踊る人々だ。どんなに自分が罪 深いかを知り、その罪が赦されている事を知っている。どんな愛で 愛されているかを知っていて、いかに苦しい時にも、主が共におら れることを知っている。 -------------- 迫害を受けることは、この世とは違う生き方をしていると認めらた ということ。大いに喜ぼう。その辛さ、悲しさは誰にも理解されな くても主が知っていてくださる。何という慰めだろう。