2019年01月12日(土)

「神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ・・私のうち に傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導い てください」詩篇139:23



ある人が、対人関係において、主に在る自分は常に正しくあろうと、
公平であろうとして来た。そしてそうしていると思っていた。自分
は人を偏見で見ていないし、そう見る人たちは間違っていると。し
かしある時、御霊の光で照らされた。自分の心の奥深くでは、自分
はそのような人達のようではないと、優越感を持ち、偏見持つ人々
を見下している事に気づかされた。

表には出さないが、心では別の差別をしている醜い自分に気づかさ
れた。まさに取税人を裁き見下している、パリサイ人の姿そのまま
ではないか。愕然とした。神に反抗しているなら、わかりやすいが、
表面的には、正しくあろうとし、従おうとしているので、返って気
づかない。

パリサイ人は自分は正しいと信じ込んでいた。御言葉と御霊の光が
臨む時、私たちも、心の奥底が見せられ、自分の姿を知る。落ち込
むが、神はそんな事はすでにご存じの上で、愛して下さっている。
神は知っておられるが、自分が自分の本当の姿を知らない。試練を
通して、行き詰まりを通して、本来の姿を教え、見せて下さる。

余裕のある時は、幾らでも自分を繕えて、うまく見せられるが、切
羽詰まった試練の時に、全く余裕の無い時に現れる姿が、自らの本
性だ。言い訳や弁解せず、自分を正当化せず、その自分を認めて行
く時、キリストのかたちへと変えられ、成長して行く。

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「人の内側のものと心とは、深いもの」とあるように、罪深い、醜
い自分を知る。それに向き合い、認めて行けるのは、主に愛されて
いるからだ。主の愛があるから、そう出来る。どんなにひどくても、
主は変わらない愛で、愛して下さっているからだ。