2020年04月11日(土)

「それから、幾日もたたぬうちに、弟は、何もかもまとめて遠い国 に旅立った。そして、そこで放蕩して湯水のように財産を使ってし まった」ルカ15:13 


父のもとが窮屈で嫌だった弟息子は、家を出た。父のもとを去り、
放縦を自由とはき違え、放蕩三昧をした。父からの財産を使い果た
した後、食べる事に困窮し、戻って来た。父はこの息子を「死んで
いたのが生き返り」と言った。家出する以前に、ずっと父のそばに
いた時から死んでいたと。父との関係はしゃ断されていた。

父はどんな時も決して変わらない愛で、息子を愛し続けていたが、
息子の心は父から離れてしまっていた。身体はそこにいたが、心は
無かった。父には、それがわかっていたので、息子の望むようにさ
せた。息子は、気ままに、好き放題をし、放蕩の限りを尽くし、行
き着く所まで行った。

身を滅ぼし、どん底で我に返った。このままでは飢死してしまう。
父のもとへ帰る決心をした。私たちもどうだろう。御父を離れて、
自分の思いで、好きなように、欲望に生きてしまう。罪を犯すと、
なかなかすぐに帰れない。どの面下げて帰ればよいのか。少しまし
になってから帰ろうと思う。しかし父が喜ばれるのは、息子が帰っ
たことだ。

「祝おうではないか」、父は、息子の帰りをひたすら待ち、待ち続
け、見つけるや、父の方から走り寄り、抱き口づけした。その時、
息子に真の悔い改めが起きた。息子は生き返った。父は待ち続けて
いる。強制的に連れ戻すのではなく、ただ待たれる。愛は自発的、
自由意志だ。私たちは何度も離れてしまう。しかし父は両手を開い
て待っておられる。どんな時でも立ち返ることができる。

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父親はずっと待ち続け、心がそこに集中していたので遠くの息子が
わかった。一言も責めず、大喜びで迎える。この世には無いので、
一見、非常識なまでの愛だ。私たちの主に、私たちはこの愛で愛さ
れている。主はずっと待っていて下さる。