2020年08月12日(水) 「いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、 神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一 新によって自分を変えなさい」ローマ12:2
「いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、 神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一 新によって自分を変えなさい」ローマ12:2
主を求めているつもりだが、出会っている実感が無い。祈っている が聞かれている気がしない、壁に向かっているように感じるという 人々がいる。求めているのに「なぜ?」と。求める者には答えて下 さるお方ではないのか。求めているが、神がよくわからないという 時、「自分に都合の良い神」を求めている事がある。 自分の思いが強く、自分にとって心地良い神を求めている。自分の イメージ通りの、自分の思い通りの神を求めていて、そんな神は存 在しないので、まことの神とは違うので、かけ離れているので幾ら 求めてもわからない。神がわからないという時、的がずれていない か。実は、まことの神ではなくて、自分に都合の良い偶像を求めて いたりする。 又、一方的に自分の願いを聞いて欲しいばかりだろうか。願いを叶 えて欲しいし、助けて欲しい。そのためだけの神なら、神社で、さ い銭を投げ入れ、かしわ手を打ち、ただこちらの願いのみを告げる のと同じになってしまう。 そこに、主の側のお心はどうなのか、主の喜ばれること、御心を行 なって行こうとの思い、又、主を知りたい、主のお心を知りたいと の思いが欠落している。それなら御利益宗教になってしまう。神の 御心は何か、何が良いことで、神に受け入れられるのか、そこに焦 点を当てて行く時に、主を新しく〃知って行ける。 そして御心に従って行く時に初めて、自分が変えられて行くことを 実感する。あれほど変わらなかった自分が変えられて行く。 ・・・・・・・・・・ どうしても自分中心に発想し、考えてしまうので、主がわからない し、御心がわからない。見えない。発想を転換し、自分でなく、主 はどう思われ、どうされようとし、何を喜ばれるのかの視点に立っ て、祈る時に景色が変わって来る。主語を「主」に変えよう。