2021年12月12日(日)

「人は自分の行ないがことごとく純粋だと思う。しかし主は人のた ましいの値うちをはかられる」箴言16:2


ある人がダイエット中で、ケーキ店に近づいた時に、「主よ、もし
ケーキを買う事が御心でなければ、駐車場が空いていませんよう
に」と祈った。すると駐車場は空いていた。笑い話みたいだが、私
達も同じような事をしているかも知れない。主が見られるのは動機
だ。動機はどうなのだろう。

主よ、御心が成りますようにと祈るのだが、実は自分のしたい事は
決まっていて、私の心が成りますようにだろうか。主からの承認印
が欲しいのだろうか。御言葉を通して導きを、と祈るのだが、もし
すでに決めているなら、自分の計画に合わない御言葉は無意識にも
排除してしまう。

そして自分に都合の良い御言葉しか目に入らない。自分は決してそ
んな事はしない、偏見無しに御言葉を聞いていると思うのだが、無
意識にそうしてしまっていて、気づかない。時々、御言葉を与えら
れたと思うが、もしその御言葉が実現しなければ、それは神から語
られたものではないとある。

自分が取って来た言葉だと。余りにも思いが強いと、間違ってしま
う。間違いに進まないためには、自分の計画を一旦、主に委ねる事
だ。主に明け渡すように言っている。「しようとする事を主にゆだ
ねよ。そうすれば、あなたの計画は揺るがない」。

自分の手から離れたその計画が、もし御心で無ければ、返って来な
い。それはその方がよいのではないだろうか。しかし御心なら返っ
て来て、更に揺るぎないものとされる。そして主により成就される。

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御心を求める時に、自分の強い思いがあると、御言葉もそれに合わ
せて取ってしまう。間違った方向へ行かないためにも、一旦自分を
ゆだねる事が大切だ。右でも左でも御心の通りにと、と明け渡す時、
御心がわかる事が往々にしてある。