2022年02月09日(水)

「しかしふたりの目はさえぎられていて、イエスだとはわからなか った」ルカ24:16



二人の弟子たちが、主が十字架で死んでしまわれたので、なすすべ
なくエルサレムから、郷里に帰ろうとしていた。彼らは「暗い顔つ
き」であり、力なく歩いていた。この方は「行ないにも言葉にも力
ある預言者」で、贖い主だと「望みをかけていた」が、だめだっ
た。

失望落胆、無力感におおわれていた。そんな時、主が近づいて、彼
らのかたわらを歩かれた。そしてその話は何の事かと、問われる。
だが彼らには、主だとわからない。なぜ、わからなかったのだろ
う。
主が「預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち」と
言われ、原因は「不信仰」だった。

彼らは何度も主から十字架の死とよみがえりを聞いていたが、信じ
てはいなかった。主はローマ帝国をくつがえし、王となるとの、強
い思いが御言葉をさえぎっていたからだ。私たちはどうだろう。形
は違うが、しばしば主が見えなくなってしまう。

ある主婦の証しだ。朝の片づけ時に、牛乳パックを倒して、台所は
台無しになった。山積みの家事も控え、朝からうんざりで、気持ち
が萎え、暗くなった。目の前の事だけで、主が飛んでいた。しかし
ふっと我に返り、いやそうではない、すべての事は感謝であるは
ず。

「主よ、この事も感謝します」と見上げると、心が変わり、主への
期待で軽くなった。そして主と共に、台所の拭き掃除と共に片づけ
もでき、普段から掃除しなきゃとストレスの台所がすっかり綺麗に
なった。ストレスから解放され、朝から喜びが湧いた。

肉の目には平凡にしか見えない毎日に、信仰を持って見上げる時
に、
毎日が、生きておられる主への喜びと感謝に変えられる。
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与えられている恵みを精いっぱい感謝しよう。心が主に向き新たに
される。目が遮られている時、気づきたい。既に手にしている恵み
に感謝だ。