2022年09月11日(日)

「自分がいやされたことがわかると、大声で神をほめたたえながら 引き返して来て、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。彼はサマ リヤ人であった」ルカ17:15 



10人のらい病人がいやされた。当時らい病は、不治の病で人々から
隔離され、歩く時は「汚れた者です」と唱えねばならなかった。社
会からのけ者にされ、希望もなく、絶望的な人生だったろう。主が、
らい病をいやされた噂を耳にし、彼らは主にすがった。らい病人は
人前に出られない。遠く離れた所から声を張り上げて「あわれんで
下さい」と主に求めた。

遠くから力の限りの大声で、必死に願った。答えてもらえない相手
なら、はなから求めはしない。その切なる求めに、主は答え「行き
なさい。自分を祭司に見せなさい」と。いやしを判断をするのは祭
司だった。しかしその時は、まだ直っていない。らい病のままだ。
そのままで、言われた通りに、祭司のもとへ出発する。

すると主の言葉を信じて行動した時に、途中でらい病がいやされた。
普通ならいやされてから、祭司のもとへ行くが、彼らはみ言葉を受
け取るや、出かけた。これは彼らの信仰だ。この信仰に答えられて、
途中できよめられた。そして10人の内、1人の異邦人だけが、主に
感謝するために戻って来た。9人はユダヤ人だ。いやしが叶えば、
本音ではもう主に用はなかった。

いやしだけが目的だった。それを得るや、大喜びで世に帰り、主の
もとを去った。しかしサマリヤ人は、主のもとに戻り、御前にひれ
伏した。その時、いやし主との関係に立ち返ることができた。「立
ち上がって、行きなさい。あなたの信仰が、あなたを直したので
す」この信仰が彼を救った。感謝する時、主をあがめることになる。

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生けるしかばね、のような状態がいやされ、天にも上る心地だった
ろう。いやし主に向かずに、大喜びで自分の道に向かってしまう。
試練の時は必死に主に願うが、解決するとどうだろう。主に感謝を
献げる事について、新たにされたい。