2022年12月12日(月)

「さて、アブラハムの時代にあった先のききんとは別に、この国に またききんがあった」創世記26:1



この箇所に不思議な出来事が出て来る。ききんの最中に、イサクは
土地に種を蒔いたのだ。作物が生長するどころか、どんどん枯れて
行く中で、種を蒔いた。普通はしないし、あり得ない事だ。どう見
ても、作物が生長する状況ではない。むしろ種をだめにして、無駄
にするだけだ。しかしイサクは状況ではなく、主を信じた。信仰に
よって種を蒔いた。

主を信じていなければ、蒔かなかったろう。種を失うだけなのだか
ら。だが、常識では有り得ない事が起きた。百倍の収穫を得たの
だ。「主が彼を祝福してくださった」からであった。主の祝福によ
る事であった。それは一方的な主の祝福であった。主は祝福して下
さる。

少年が献げた五つのパンと二匹の魚を用いて、奇跡をし、大勢の群
衆を満腹されられた。主の祝福であった。ペテロが、前夜一匹も魚
が捕れずに戻った朝に、主が沖に漕ぎ出て、網を下ろすようにと。
朝に魚は捕れない。湖の底深くにもぐっている。自然現象では、常
識では有り得ない。しかし主の言葉に従い、網を下ろすと、驚くば
かりの大漁だった。

有り得ない事が起きた。主の祝福であった。私たちも、見えるとこ
ろではなく、信仰によって歩む時に、主に従って行動する時に、大
きな祝福を経験する。イサクは種を蒔き、少年は主に献げ、ペテロ
は網を下ろした。今、なすべき事が、主から示されているだろう
か。見えるところがどうであれ、示しに従おう。豊かな祝福を手に
する事になる。
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主に頼りながらも、どこかに自分の経験を頼り、保険をかけてしま
う。有り得ない事は起こらないという不信仰を主はご存じで、それ
でも導いてくださる。へりくだり主の栄光を見る者になりたい。