2024年11月11日(月)

「しもべの主人は、かわいそうに思って、彼を赦し、借金を免除 してやった」マタイ18:27



信仰人生で、人を赦す事の難しさを経験しただろうか。人を赦せな
い事ほど辛く、苦しいものはない。心が重く、鉛を抱えているよう
だ。どんなに楽しい時も、喜びの時も、その事が頭をよぎった途端、
心は辛く、暗くなる。喜びがぶち壊しになる。ペテロが何度まで赦
すべきかと、主に問うた。その時に、主は7度を70倍するまでと言
われ、王としもべの話をされた。

6000億の借金の返済不可能なしもべを、王はかわいそうに思い、赦
し、免除してやった。主の大きなあわれみだ。ところが、そのしも
べが、100万を返金できない仲間を決して赦さず、牢に投げ入れた。
それを聞いた王は非常に怒り、そのしもべを借金全額返済まで投獄
した。私たちはどうだろう。主の十字架により、すべての罪を無罪
放免にされた。何という驚くべき恵みだろう。

自分はその大きな恵みを受けていながら、人を赦さないとはどうだ
ろう。そして赦さない心は、牢獄の中だ。獄につながれ、暗闇の中
で、がんじがらめだ。苦しいのは相手ではなく、自分自身だ。主は、
獄から光へと出して下さる。救って下さる。しかし、自分の側の意
志と決意が必要だ。罪の性質は、赦せないのではなく、決してどこ
までも赦したくない。

主は赦せるようにして下さるが、心の底ではそうしたくない自分が
いる。「どうにもできません」と祈ろう。目の前の相手から逃げて
も、次の環境で、又、別の相手がいる。自分が変えられる事が御心
だ。主は自由にして下さる。まず正直に「赦したくありません」と、
ありのまま主に祈ろう。主は手を取って、ひと足ひと足と導いて下
さる。いつか赦せるようにして下さる。
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赦せないのではなく、赦したくないのではないか。いつまでも憎ん
でいたいのは罪ではないか。開放されよう。赦せるよう祈ろう。自
分には出来なくても、御心にかなう祈りだ。主がしてくださる。