2006年07月12日(水)

「ただ私としては、この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたい・・私が気前がいいので、あなたの目にはねたましく思われるのですか」マタイ20:2

主人は早朝から3時間毎に労務者を雇った。
夕5時の人々は1時間だけ働いた。早朝の人
々は1デナリの契約をし、それ以降は「相当
のもの」と明確な契約は無い。だから主人は
不当な事は何もしていない。自分達は多く働
いたのだから、もっとくれてもよいとの不満
だ。主人の心は憐れみだ。早朝の人は1日中
希望と平安があった。1日働けば確実に賃金
が入る。しかし、5時の人はどんなに不安、
煩い、恐れの1日だったろう。家族にその日
の糧が無いのだ。主人の心は慈しみと憐れみ
で一杯だ。主人の憐れみが現れた時、早朝の
人々の妬み、ひがみ、怒りが露呈した。肉は
恵みに反発する。恵みなどとんでも無い。パ
リサイ人は律法を忠実に行って来た。行いに
生きて来た。それが突然、行いは不要、信仰
だけとの救いが来た時、反発敵対し、主を憎
んだ。私達も恵みに始まりながら、肉で完成
しようとしていないか。そこには妬み、ひが
み、怒りが生じる。主人はフェアだ。何も間
違っていない。フェアで、どこまでも憐れみ
深い。私達が見るべきは主人の態度と心だ。
・・・・・・・・・
最後の人か最初の人か、どちらに同調するか
で、自分の姿があらわになる。自分の内の、
培われた律法的価値観に気づき、御言葉の価
値観、主のお心を知り、主の心を心とする事
に、一心に目を向けたい。