2007年09月11日(火)

「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです」ローマ4:25



ある父親の証しだ。子供に親の良か
れとの思いを押しつけ、子供をコン
トロールして来た。それが子供のた
めだと思っていた。しかし、ずっと
親の言いなりで、良い子で来た子供
が爆発し、非行に走った。子供のた
めには偽りで、実は自分のために子
供を支配していた事に気づかされた。
子供でなく自分を愛する自己愛であ
り、子供が爆発したのは当然だった。
真の愛ならそうはならないはずだ。
涙と共に悔い改めて、主の血潮によ
る赦しを受け取った。償いの多額の
弁償金をすべて支払い、地域の青少
年問題に取り組み、夜回りをし、学
校や地区の役を引き受け、子供に関
わった。心血を注ぎ、精一杯の労力、
時間、金銭を献げ、祈り続けた。各
方面に多大な迷惑をかけ、害を及ぼ
し、罪の刈り取りは決して甘いもの
ではなかった。厳しく苦しく辛いも
のだった。しかし、主に赦されてい
ると、心から信じる事ができたから
こそ、出来た事であった。主の十字
架の血潮で赦され、義とされた確信
は、どんなに苦しい中でも支えであ
った。実際大変な労苦ではあったが、
しかし、恐れはなかった。罪を赦さ
れるという事は、何という喜びと平
安であろう。罪無し、義だとして下
さるとは、何という恵みだろう。同
様に私達の罪も完全に赦されている。
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主イエスの十字架によって神様は私
たちの罪をもう思い出さないと言っ
て下さり、新しい生ける道を設けて
下さった。罪の赦しをしっかり受け
取る時、その刈り取りもまた新しい
歩みの中だ。