2008年06月11日(水)

『彼らは、私の民の傷を手軽にいやし、平安がないのに、「平安だ、平安だ」と言う』エレミヤ6:14

誰しも、自分の弱さや醜さ、汚さは見たくな
い。決して認めたくない。そこに触れられる
や、即、逃げるし、隠れる。見たくないもの、
考えたくない事は心の引き出しにしっかりし
まい込み、触れない。それで事足れりとして
しまう。放っておきたい。しかし、主は私た
ちを真実に愛して下さっているので、自由に
し、解放するために、その一つ一つを御霊の
光のもとに引き出される。考えまいと押し込
めていたもの、無意識下にあるものが、あら
わにされる。高慢やプライド、虚栄、貪欲、
偽り欺瞞、自己愛、内にある醜いものが光に
照らし出されると、その厳しさに心は余りに
も痛くて、辛い。その時、その痛みから逃が
れたい。そのために言い訳、取り繕い、理由
付けをする。自分を正当化し心をガードする。
そうすれば痛から逃げられる。そうやって
「偽りの平安」に逃げ込む。それが世が与え
る平安、肉の平安だ。しかし、光からも逃げ
て、光をシャットアウトする事になる。そこ
は暗闇だ。真の平安を得る道がある。光の照
らし出される時に、いっさいの自己弁護も言
い訳も止めることだ。「それが私です」と、
御霊の示しに同意し、認め、そして悔い改め
るなら、十字架から何があっても揺るぐこと
のない、動じることのないまことの平安が流
れ出て来る。「キリストの平安」を経験する。
・・・・・・・・・・
偽りの平安とは、問題から逃げて、シャット
アウトし、目をつぶってしまう事だ。光があ
っても見えない。逃げないで、現実をしっか
り見て、十字架のもとへ行く時、大海のよう
な安らかな、揺るぐことのない平安を味わう。