2009年03月29日(日)

「真夜中ごろ、パウロとシラスが神に祈りつつ賛美の歌を歌っていると、ほかの囚人たちも聞き入っていた」使徒16:25


パウロは御霊の示しにより、マケドニヤに渡り、宣教のためにピリピの町へやっ
て来た。
そして、川岸の祈り場へ行き祈った。それから宣教し、悪霊を追い出したが、訴
えられて捕らえられ、投獄されてしまった。

むち打たれ、暗い奥の牢へ監禁されてしまった。「祈ったのに、何で?」「御霊
の示しに従い、確信もって前進したのに、どうして?」

御心を行なっているのに、問題が来て、苦しみがやって来た。「なぜ?どうし
て?」ましてや、宣教のために来たのに、投獄だ。

あの祈りは何だったのか?投獄されてしまって、身動きもとれない。これでは、
どうにもならないではないか。

しかし、神の計画は着々と前進していた。パウロとシラスは、神の主権とご計画
を信じ、牢獄の中で祈りをし、賛美した。
結果的に、その投獄を通して、看守が救われた。そして、何と全家族も救われた
のだ。ピリピの教会の核となって行った。

神に間違いは無い。一つ一つの事柄が、パズルのピースだ。つながった時に、神
のみわざが見えて来る。「あんなに祈ったのに、どうしてこのように?」との状
況にあるだろうか。

神はご自身のご計画を着々と進めておられる。紆余曲折により、神のみ思いの通
りに、みわざが進行中だ。神に間違いはない。思い煩いと不安、恐れを「すべて
のことについて感謝しなさい」感謝に変えよう。恐れが平安に変えられる。

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主に間違いはない。「なぜ?どうして?」という事態が起きて、その場ではよく
わからないが、パズルが埋まるようにみわざへと展開して行く。投獄が看守と全
家族の救いに繋がったように。目の前の事態も素晴らしいご計画がある。