2009年05月29日(金)

「わたしはあなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます」ルカ11:9


祈りは、よく学校だと言われる。祈りは祈りの実践により、学んで行くものだか
らだ。実地訓練を施して下さる。祈りは、実際祈る中で、教えられて行く。

主は、「求めよ」と言われ、「あなたがたのものにならないのは、願わないか
らだ」と言われる。私たちは求め続けるべきだ。

しかし、私たちは実際問題、多くの祈りが聞かれ、又、聞かれなかった祈り、と
いうよりは「ノー」の答えの祈りも多く経験する。御心は一つであり、「人の心
には多くの計画がある。しかし主のはかりごとだけが成る」の通りだ。

「ノー」は、答えであり、厳粛な神のご意志だ。「ノー」の答えの中に、神の御
旨がある。その「ノー」を通して、神の御心を知り、神を更に新たに知る事がで
きる。

そして、もし祈らなければ、「ノー」という答えも知る事は出来なかった。「イ
エス」であれ「ノー」であれ、神のお心が示されたのであり、神のご計画が成っ
た。その神に触れ、み思いを知る事が、平安と喜びに至る。

祈りの答えが、しばしば自分の思いと違う。しかし、主が祈られた「できますな
らば、この杯を過ぎ去らせて下さい」の祈りが、もしその通りに答えられていた
ら、どうなっていたのだろう。

「ノー」の答えが最善であった事を、後になって知る。そして、必ず平安を見い
出す。主の答えは完璧だ。どんな時も、自分にとって最善をして下さる。主を信
頼し、続けて祈って行こう。

又、その祈りは御心に適っているが、まだ「時」でない場合がある。「神のなさ
ることは、すべて時にかなって美しい」。ピッタリのタイミングがあり、周囲も
神の栄光を見る。神の美しさが現される。祈り続けよう。

・・・・・・・・・・・・・・
祈りがあるから、「ノー」もキャッチできるのであり、学べる。祈りがなければ、
気づかぬまま、沢山の恵みが漫然と通り過ぎて行くばかりだ。最善をして下さる、
神様視点に立って、今日も祈り心で歩もう。恵みをキャッチさせて下さる。