2009年09月28日(月)

「イエスは・・人々が献金箱へ金を投げ入れる様子を見ておられた」マルコ12:43



1人の貧しいやもめが2レプタを献金した。僅かな額であったが、主はその事を大きく評価された。金持ちが多額の献金をしていた中で、隠れるようにそっと献げたこのやもめに目を留められた。少額であったが、それは生活費のすべてだった。主はそれを重く受け止められた。

ここで言われている事は何なのか。やもめのように、全生活費を献げよと言うことか。それが霊的だということなのか。そうではなく、彼女の心の目が見えるところでなく、主に向いていたという事だ。

目の前の生活や物や、将来の事ではなく、目が主に向いていた。所有欲から自由にされて、自分のすべてを神に明け渡し、委ねきっていた。「人が主に向くなら、おおいは取り除かれ」「主の御霊のあるところには自由がある」神と富に兼ね仕える事はできない。

彼女の心は富にではなく、神にあり、神に自分自身と将来を任せた。投げ入れたのは、彼女の所有欲、自我、いのちそのものであり、神にすべてを明け渡したのだった。それが彼女の信仰であった。主はその心をしっかり受け止めて下さった。

同様に主は私たちの献げものも、その心もしっかりと受け取って下さっている。主は今日も私たちの心を見ておられる。心を主にお献げして歩もう。
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自分が得たもので自分を守ろうとし、守るためにまた得ようとする。主に目が向かないよう阻むものが外にも内にもある。主に頼り、主の助けによって今週も歩めますように。