2010年10月29日(金)

「おまえはわたしのしもべヨブに心を留めたか。彼のように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者・・」ヨブ1:8

ヨブはある日突然、何もかもを失ってしまった。持ち物を盗まれ、しもべ達は殺され、若者達は焼け死に、大風で家が倒壊し、子供達が全員死亡してしまった。又、ヨブ自身も身体中に悪性の腫瘍ができ苦しんだ。それは死を願うほどの苦痛だった。

ところが訪ねて来た友人達は「さあ、思い出せ。だれが罪がないのに滅びた者があるか」と、これらはヨブの罪のゆえの苦しみだと、傷口に更に塩を塗って苦しめた。罪を捨て、不正を捨てるなら、苦しみは去ると。しかし、神は最後に友人達を怒り、叱責された。「わたしについて真実を語らず」と。

ヨブ記を読むと、ヨブの罪の結果、様々な苦しみが来たのではない事がよくわかる。しかし、自分に苦しみが襲うと、因果応報と思ってしまうクリスチャンは多い。悪い事をした罰だと思う。あの事か、この事か、更に恐れと不安に陥る。私達の中に培われた、平穏無事が善で、痛み苦しみは悪との価値観だ。

祝福と痛みは相容れないのだ。しかし、神は信仰人生には、数多くの痛み苦しみが来ると言われる。苦しみや痛みは罪ではない。決して罰などではない。私達の益のためだ。それらを通して、どんなに神に近づけられた事だろう。

神に拠りすがり、忍耐が与えられ、信仰を強められ、神を新たに経験した。「うわさを聞いていたが、今、この目であなたを見た」と告白したヨブのように。
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神様を近く知る事もなく平穏無事に過ごしたとしても、心には多くの不安が来る。逆境も順境も全ての出来事のその上に神様を見ておれる事が一番の幸いだ。神様のご計画を私達の価値観で推し量らず最善を信じていよう。