2011年06月28日(火)

「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして・・」ピリピ2:6 



信仰を持って、何年たっても、プライドやメンツに生きてしまう。男性は仕事に野心を持ち、高いプライドを持っている。母親は子供によって、自分のプライドを満たそうとする。気づいていたら良いが、無意識の場合も多い。対人関係で敵対心や妬み、争いが起こるのは、双方のプライドとプライドがぶつかるからだ。

サウルは「アマレクを打ち、すべてのものを聖絶せよ」との主の命令に従わなかった。最も良いものを惜しみ、値打ちのないものだけを聖絶した。サムエルにその事を問い詰められると、主にいけにえを献げるためと、言い訳をした。言い訳をするところに、真の悔い改めはない。サウルは王位から退けられた。この時、神に従わなかったという重大な失敗を認め、悔い改めればよかった。

しかし、この時のサウルの心は「私の民と長老とイスラエルとの前で私の面目を立てて下さい」というものであった。彼の重大関心事は自らのメンツであった。私たちにも肉があるので、信仰に立ち、御言葉に立ち、主に焦点を合わせていなければ、体裁、メンツ、プライドが価値判断となってしまう。真逆の方向へ向かってしまう。悔い改めでなく、自分を守り、体面を守るために動いてしまう。ご自身を捨てられご自分を無にされた方に、目を注いでいよう。
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プライドは、御心と真逆を歩ませ、競い争い奪わせる。神なる主が、ご自分を無にされ救われていながら、自分は決して無に等しいと考えていない。いつもそんな自分であることを覚え、認めていたい。