2011年10月29日(土)

「ほんとうに、自分の中で死を覚悟しました。これは、もはや自分自身を頼まず、 死者をよみがえらせて下さる神により頼む者となるためでした」Uコリント1: 9



私たちは、なかなか自分の弱さを認められない。認めているつもりでも、全面無
力など決して認めたくない。少しぐらいの力を残しておきたい。少しぐらい自分
を認めて欲しい。どこまでも認められたいし、評価されたい。徹底無力など余り
にも惨めだ。

人に弱さを見せたくないし、知られたくない。プライドが邪魔をする。肉が頑張
るのは、自分の力で頑張るのは、評価されたいためだ。だから無力を認める事と
相反する事になる。しかし、無力でない人が神に頼る事は不可能だ。頼る必要性
が無い。信仰とは、神に頼る事だと、頭ではわかるが、頼ることは出来ない。

人は心底無力になった時、初めて神に頼る。自らをへりくだらせ、自分がいかに
無力であるかを知らせてくれるのは、苦しみしかない。パウロは、厳しい試練が
あり、耐えられないほどの圧迫を受け、命さえも危うくなり、その無力の中で、
自分に頼む事ができず、神に拠り頼むようにされたと。

肉にとって、無力とは忌むべきものだ。肉は、強くありたいし、人の上に立ちた
いし、人を支配したい。すべてをコントロールしていたい。しかし、信仰の世界
にあっては、無力を知る事こそ、大きな恵みだ。初めて神に頼ることを知る。そ
れゆえ主ご自身を知って行ける。何という祝福だろう。

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この世では強さが善であり、能力がある事が良い事だ。そのため古い価値観では、
弱さや無力は認めたくないし直視したくない。ふたをしておきたい。しかし、信
仰の世界は全く違う。弱さが善であり、弱さの中で初めて主を知る。弱さを受け
入れられるよう祈ろう。