2012年07月29日(日)

「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう」マタイ 4:9



サタンがヨブのことを神に中傷して来た。というのは、主がサタンに「ヨブを見
たか。彼のように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者はいない」
と言われたからだ。それを受けてサタンは「ヨブはいたずらに神を恐れましょう
か」と。

サタン曰く、ヨブは自分にとって利益、見返りがあるから、神を恐れているのだ
と。でないければ従うはずがないと。神を信じる時に、どうだろう。多くの人は、
信仰を持つなら、自分にどんな利得があるかを考える。ご利益宗教であり、利得
が無いなら信心する意味がない。これが世の人の考えだ。

クリスチャンにも「信仰しているのに、何ら良い事がない」との、この世の価値
観、古い価値観が頭をもたげて来る。「何も良い事がないなら、信仰する理由が
ないではないか」この誘惑がクリスチャンにも臨む。肉は、この世の栄誉、賞賛、
繁栄を持つことを望む。古い性質には強い願望がある。

気づかずに、神を利用して、自己実現を果たそうとする。この世の栄光、自分の
誉れを求める事は、サタンを拝んで、手に入れることになってしまう。親子が愛
するのに、理由が必要だろうか。理由が生じる時、それは愛で無くなってしまう。

親子の間が利害関係なら、そこに愛は無い。主を愛するのは、利得があるからで
はない。真の親であり、父であるからだ。得るものがあるから礼拝するのでなく、
神が神であられるから礼拝する。

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クリスチャンも、この世の価値観、古い価値観が根深くあり、良いものをもらう
ために、自分に利益があるから信仰している。自分のための神だ。だが、そこに
真の御霊の喜びは無い。神のための自分、神の栄光を求めて生きる自分に、少し
づつ変えて成長させて行って下さる。そこに真の満ち溢れる喜びがある。