2012年09月28日(金)

「四十歳になったころ、モーセはその兄弟であるイスラエル人を、顧みる心を起こしました」使徒7:23


王子モーセは、40歳の時に虐げられている同胞を救おうとした。が、失敗した。地位、権力、富、人脈、何もかも持っていたに関わらず、出来なかった。パロに命を狙われ、ミデヤンの地に逃れた。エジプトでの栄華を極めた生活とは一変、何も無い荒野での遊牧民となった。地位も名誉も富もすべてを失い、ただの羊飼いとなった。そして結婚し家庭を持った。かつての栄華も幻のごとく、羊飼いで一生を終えるかと思われた頃、40年後、神の時が満ちた。主の御声が臨んだ。

「さあ、行きなさい。わたしはあなたを遣わそう」と。以前は自分で出て行ったが、今度は神が遣わされると。天と地の違いだ。ここから学べる。すべてに神の定めた「時」がある。その「神の時」より以前に幾ら動き回り、事を起こしても成就しない。「神の時」には、すべてが完璧に整えられている。モーセは荒涼たる荒野での40年が、主の取り扱いであった。モーセは砕かれた。

以前なら自分こそがふさわしい、自分以外に誰がとの思いであったろう。しかし、来る日も〃も羊を飼う40年の歳月、野心も失せ、家族があり、ここで生を終えるのも小さな幸せと思っただろうか。40年後の無力な年老いたモーセこそがふさわしいと。主の見る目は違う。40年をかけて器を整えられた。今、思うようにならなくとも、主のご計画の内にあり、主の時がある。だからこそ忍耐できる。
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無力な者、最も小さな者と、自分を認めることができるまで、神様は私達をも待っていて下さる。神様のご愛と忍耐を思う。今思うようにならない事があるなら、自分の内の何かを整えられるための大切な時ではないだろうか。