2013年06月28日(金)

「何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです」ローマ4:5 


時間と労力を提供して、働いて得た報酬は給料だ。だが、全く働かずに給料が与えられたらどうだろう。それは労働していないのに、与えられる一方的なプレゼントであり、それが「恵み」だ。行ないがあって、義と認められるなら、当然だが、行ないが無いどころか、不敬虔な者を義と認めて下さっている。「私たちがまだ弱かった時・・不敬虔な者のために死なれた」「罪人であった時、キリストが死んで下さった」「行ないによるのではない。誰も誇ることのないためです」。

ぶどう園の労務者の箇所で、主は、5時から働いた労務者に、早朝から働いた労務者と同じように、1タラントを支払った主人のことを話された。主は、このようにあわれみ深く、驚くべく気前の良い方だ。放蕩息子の箇所もその通りだ。父からもらい受けた財産を湯水のように使い果たしてしまった、弟息子が、我に返って、父のもとに立ち返った時、父は、浪費した財産ことは一言も無く、尚も与える。最上の着物を着せ、指輪を、靴を与え、最上の子牛をほふり、祝いの宴会を開く。与えて、与えるばかりの父だ。

主は「弱い者」「不敬虔な者」「罪人」を愛される方だ。正しい事ができない私たちを愛し、赦し、受け入れ続けて下さる。何というあわれみ、慈しみ、恵みだろう。感謝が溢れる。働きのある、敬虔な者、霊的な、立派な人が愛されると勘違いしていないだろうか。
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信仰に立ち御心を行おうとする時、出来ない自分を見る。それでも主にあって義とみなされていることを思うと感謝が溢れる。主の十字架が5時からの者にもしっかりと備えられている。