2013年09月27日(金)

「『わたしの来るまで彼が生きながらえるのをわたしが望むとしても、それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい』」ヨハネ21:22 


おおかたの人が、心密かに、自分に無いものを求めていると言われる。「自分も○○のようであればよいのに」、違う境遇や、違う成育歴、違う才能や性格を求めていると。普段、意識しないので、無意識になされているかも知れない。しかし、それなら今の自分を否定することになってしまう。バラが百合になりたい、足の裏が目や口になりたい・・と。それらに優劣は全く無い。

一流レストランは高級料理の、下町食堂はおふくろの味の、それぞれでなければならない良さと特質がある。比較ができない、比較にならない。いつも学んでいて、頭ではその通りだとよくわかるのだが、心の底はどうだろう。人と比較し、人を羨んでいるなら、まず比較している事を認めよう。無い振りをせず、あいまいにせず、自分の羨望や妬みを認めよう。そこから新しい歩みが始まる。

自分が誰それのようになろうとするのでなく、人を真似るのでなく、主が、独自なものとして創造して下さった自分を生かして行くことを、祈り求めよう。代わりが無い。神が創造されたという事は、二つとして代わりがないという事だ。

人を羨み、人のようになるという意味では、自分を変える必要はない。与えられた賜物が更に磨かれ、品格が更に主に近づけられて行くという意味では、変えられて行かなければならない。視点が違うなら、御霊に軌道修正して頂こう。真に喜びをもって生き生きと、主が与えて下さった自分を生きて行ける。
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人と自分とは全く違うと知って来れたことが神様を知った大きな喜びの一つだ。「あの人」のようでなく、それぞれが神様に示された道を伸び伸びと歩んで行けば良い。何と平安で幸いな人生だろう。