2014年01月29日(水)

「彼らは、荒野で激しい欲望にかられ、荒れ地で神を試みた。そこで、主は彼らにその願うところを与え、また彼らに病を送ってやせ衰えさせた」詩篇106:14


イスラエルの民は、自己中心な自分の欲望にかられて、わがままに神に求めた。彼らは、ただ自分の欲望のままを願い求めたが、神は彼らに彼らの願う物を与えられた。どうしても何が何でも欲しくて、願ったものは得たが、しかし、彼らは決して心が満たされることはなかった。別訳では「神は欲しがるものをお与えになりましたが、彼らの心を空虚になさいました」とある。

彼らは、欲しくてたまらない物を手に入れたのに、心は決して満たされない。自分が最も欲しい、絶対に欲しい、どうしても欲しいと、願っていた物を得た途端、心が虚しくてたまらず、満たされず、喜びもない。これは自分が本当に願っていたものではないと気づく。自分が本当に願っていたものは、別のものだと。

私たちの心が本当に欲っし、願い、求めているもの、それは、神ご自身だ。心の空洞は、神によってのみ、ピッタリと埋められる。神との交わりなしでは、何を手に入れたとしても、心には、虚しさしか残らない。一時の快楽はあっても、続かない。あれを求め、これを求め、ますます心は渇き、空虚になるばかりだ。

「激しい欲望」「願うところ」「やせ衰えさせた」欲にかられ、どうしてもと願うなら、神はそれを与えられる。しかし、心は逆にやせ衰える。神が与えて下さるものに満足し、感謝し、「満ち足りた心を伴う敬虔」はどんなに喜びであり幸せだろう。「大きな利益を受ける道」だ。神は貪欲から心を守り、真の満足を下さる。
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御心の祈りが叶えられた時に来る喜びは、十分に満ちたり、ただ主への感謝しかない。やってもやっても満足できない、与えられてもまた渇くなら、それは主が送られた渇きであるのかもしれない。