2015年11月28日(土)

「それは、あなたを苦しめ、あなたを試み、ついには、あなたをし あわせにするためであった」申命記8:16 

    
     
「主は、苦しめ、飢えさせ」とある。主が「苦しめ」「餓えさせ
る」と。信仰人生で、種々の悩み苦しみにそうぐうする。すると私
たちは戸惑い、いぶかる。信仰するなら、祝福して下さるはずでは
ないのか、病気にならず健康で、商売は繁盛で、畑は豊作で、受験
は合格で、良いもので満たして下さるのではないのか。

だが、現実は、病気から奇跡的に治る人もいれば、病気のままの
人々もいる。富んでいる人もいれば、非常に貧しい人もいる。畑は
不作にもなるし、受験は不合格もある。しかし、それは祝福されて
いないのではない。身体的、物質的、霊的に、あなたが飢え、苦し
む時は幸いだと言われる。なぜなら、その時にこそ、神を知り、天
からのマナを食するからだ。

対人関係は良好、経済的、環境的に「安定」している時、人は神を
求めない。その「安定」が崩される時、初めて目に見えないものに
目を向け、見えないものを求め出す。それは、人がパンだけでなく、
御言葉によって生きることを体験する時とされ、又、その苦しいプ
ロセスにおいても「あなたの着物はすり切れず、あなたの足は、は
れなかった」必ず守られる。

そして、良い地に導き入れられる。御霊による喜びと平安を知る。
そして「ついには、あなたをしあわせにするため」、通って良かっ
たと思える。主を知るからだ。喜びに満ちる。

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様々な苦しみを通るが、そこでしか知ることの出来ない、主ご自身
を知る。そこでしか聞くことの出来ない御言葉を聞く。その時に、
状況に全く関係の無い、御霊の喜び、御霊の平安が心に臨む。良い
地に導き入れられる。