2015年12月29日(火) 「そこで、イエスはすぐに手を伸ばして、彼をつかんで・・」マタ イ 14:30
「そこで、イエスはすぐに手を伸ばして、彼をつかんで・・」マタ イ 14:30
自然界をも支配する主が、嵐の中の水の上を歩いて来られた。ペテ ロは主の言葉さえあれば、自分も水の上を歩けると信じた。それで 主のもとへ行くことを願った。すると、主は「来なさい」と言われ た。「そこで、ペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスのほう に行った」。ペテロの信仰だ。 ペテロには、疑う事も出来たが、主を信じて一歩を踏み出した。ペ テロの信仰によってこの奇跡が起きた。だから私たちもこの箇所を 目にできる。しかしその時、風に目が行き、主から目を離してしま った。その途端、ブクブク沈み始めた。だが「主よ。助けて」と叫 ぶと、その瞬間すぐに主が手を伸ばし、ペテロをつかまれた。 そして、彼をつかんだ中で「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか」と。 この時、ペテロが主をつかんだのではなく、主がペテロをつかまれ た。私たちも、どんなに苦しい嵐の試練の中も、主を見て、御言葉 に立っている時、不思議な平安を経験する。歩んで行ける。 しかし、主と御言葉から離れ、現状を見た途端に、平安を無くし沈 んでしまう。だが、その瞬間にも、主がつかんで下さると言うのは、 何というあわれみだろう。「来なさい」と言われた主は、必ずその ように支えて下さる。つかんでいて下さる。私たちも、主が「来な さい」と言われたなら、信仰もって進み出そう。主を見て、御言葉 を握って進んで行ける。何があっても、つかんでいて下さる。 ・・・・・・・・・・・ 二つのものを同時に見られないので、いつもどちらか一方を見てい る。目に見える状況か、御言葉か。状況だけを見ると、思い煩いと 不安で心暗くなり、落ち込んで行く。しかし御言葉を見ると、神視 点に返り、我に返る。今日もつかんでいて下さる主を見ていよう。