2016年01月29日(金)

「父は彼に言った『おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ』」ルカ15:31



放蕩した弟息子が、父のもとに帰り、宴会を開いていた。その時に、
兄息子が畑から戻った。音楽や踊りの音が聞こえ、何事かと、しも
べに聞いた。すると行方不明の弟が戻ったと。生死も不明の弟が戻
ったのだが、反応は喜びではなく「怒り」だった。家に入ろうとも
せず、父が出て来て、なだめたのであった。その父に、兄息子は溜
まった不満を爆発させる。

一度も言いつけを破った事もなく、ひたすら仕えて来た。それなの
に、友達と楽しむための子山羊一匹もくれたことがないこと。それ
が、身代を食いつぶした弟には、肥えた子牛をほふっている。どう
いうことかと。弟のことを「あなたの息子」と言い、自分の弟とは、
口が裂けても言いたくない。兄弟の関係を拒否している。

父に対する怒りと弟へのさげすみだ。戒めを守ることには、文句の
つけようがなく、熱心だ。しかしそれは、父の心を知って、喜んで
従っているのではなく、義務感で従っているだけだ。弟息子は失わ
れた者だったが、兄息子も同じで、失われた者だった。父と一緒に
いたが、心は遠く離れていた。父の愛がわからない。

父はそんな兄息子に、いつも一緒であり、私のものは全部お前のも
のだと言った。兄にも無条件の愛が注がれている。今、信仰生活に
喜びが無く、「ねばならない」の義務感しかなく、心に不満と怒り
があるなら、 兄息子を覚え、そのままの気持ちを御父に祈ろう。
御父は答えて下さり、今一度、御父の愛を経験する。
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いくら仕えてもらっても、その子に愛されていないなら親はどれ程
さみしいだろう。熱心な奉仕を誇り、不満と義務感しかないなら、
もう一度、私たちも御父の元に帰ろう。