2017年03月29日(水) 「私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそキリストの死は無意味です」ガラテヤ2:21
「私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそキリストの死は無意味です」ガラテヤ2:21
人間には良心が与えられている。その良心は、罪を犯すととがめが 来る。責めを感じる。そのとがめは苦しいので、無くしてしてしま いたいがために、善行をする。善い行ないで、チャラにして、無か った事にしようとする。言葉で、態度で、人を傷つけた時に、良心 のとがめが来る。 そのままでは平安が無いので、親切な行いをして返す。プラスマイ ナスゼロにする。これで良心のとがめを取り除いて、良しとする。 時々あるだろうか。しかし、これは極めて自己中心だ。自分の良心 のとがめを無くしたいだけで、神への愛や、相手への愛などまるで 無い。発想も無い。ある人は、犯した罪に対するとがめから、懸命 に奉仕したり献金している事に気づかされた。 神のために懸命に奉仕して、自分の良心をなだめ、罪滅ぼしをする。 そして自分の善行で、偽りの平安を得る。人は気づかずに、これを 繰り返している事がある。そうであれば、主の十字架は全く必要な い事になる。無意味になってしまう。主の血潮によってのみ、罪は 赦され、良心はきよめられ、どんな時も恐れなく御前に行ける。た だ主の血による。 主の血に頼っているだろうか、それとも自分のわざに頼っているだ ろうか。義が自分の力によって得られるなら、キリストの死は無意 味になり、いたずらに死なれたことになる。神の恵みを無駄にする 事になる。罪を、善い行ないで、帳消しにするのでなく、常に主の 十字架のもとへ行こう。 --------------- 失敗を悔やみそれを自分の行いで償おうとするなら、いつまでも自 分の行いの足りなさを嘆くばかりの信仰生活ではないだろうか。主 の十字架の恵みと確信を握っていよう。