2017年10月29日(日)

「私は申しました。『私のそむきの罪を主に告白しよう』すると、 あなたは私の罪のとがめを赦されました」詩編32:5


ダビデは姦淫と殺人の重罪を犯した。が、自分は王でありトップだ、
誰も何も言う者はいない。罪を隠しおおして、口をぬぐっていた。
外側はそれで済んだが、ダビデの内側は惨憺たるものだった。一日
中うめき、骨々疲れ果て、御手がのしかかり、骨髄は夏のひでりで
かわききった。平安の全く無い苦悶の中にいた。どんなに苦しかっ
たろう。

神は預言者ナタンを遣わされ、その罪を指摘、ダビデは主の御前に
罪を悔い改めた。この時、ダビデはバテシバのせいにせず、何の言
い訳もせず、責任転嫁せず、自らの罪を真っ直ぐに認めた。プライ
ドもあったろう。王の地位にありながら、悔い改めた事は、ダビデ
の素晴らしいところであった。罪は赦され、ダビデに全き平安が戻
った。

「大水の濁流も、彼のところに届きません。あなたは私の隠れ場。
あなたは苦しみから私を守り、救いの歓声で、私を取り囲まれま
す」との喜びが満ちた。罪の解決とは、悔い改めのみだ。幾ら自分
で忘れよう、無かった事にしよう、考えるまいとしても、その苦し
み、うめきはどうにもならない。「私のそむきの罪を主に告白しよ
う」その時、罪はおおわれ、完全に赦された。

私たちもプライドがあり、自我があり、素直に罪を認められない。
認めたくない。しかし、言い訳し、自己正当化している間は、主は
働けない。砕かれた、悔いた心が神の喜ばれる、一番の献げものだ。

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アダムとエバは罪が示された時、責任転嫁したが、ダビデは指摘さ
れた時に、自らの罪を認めた。すると、即、罪の赦しが宣言された。
幾らでも言い訳は出て来るし、自己正当化したい。しかし自分を砕
いて罪を認める時、主との関係が回復され、平安におおわれる。