2019年04月28日(日)

「イエスは彼らに言われた。『さあ来て、朝の食事をしなさい』」 ヨハネ21:12



ペテロは、主を呪いをかけてまで否み、裏切るという大罪を犯して
しまい、心はどんなものだったろう。主からガリラヤに行くよう伝
えられ、故郷に戻ったペテロや弟子たち。どんな顔で会えばよいの
か。合わせる顔がない。自分はもう弟子失格で、心はどんなに重い
ものだったろう。何もなすすべなく自分に出来ることは漁しかない。

それでペテロがその漁に出ると、他の弟子たちも一緒に出る。しか
し魚は一匹も捕れない。無力感、虚脱感にいただろう。魚も捕れず、
ペテロは、自分の人生の大失態が脳裏から離れず、思いはそこでい
っぱいだったろう。大好きな主を裏切り、主を捨ててしまった自分。

しかしそんな彼らに、主の方から、夜が明けそめた時、岸べに立た
れた。そして「右側に網をおろせ」と。それを主とはわからず、た
だ岸にいる人に言われる通りにすると、何と驚くばかりの大漁だっ
た。全く同じ光景が以前にもあった。それと重なり、「主です!」
と気づいた。

ペテロが主に召されて従った時のあの原点だ。ペテロは、もう一刻
も早く主のもとへ行きたいと、湖に飛び込んだ。三度否んだペテロ、
主を捨てて逃げ去った弟子たち、主はその心の挫折、後悔、傷みを
ご存じであった。主の方から弟子たちに朝の食事を用意し、ペテロ
を回復させられ、もう一度立ち上がらせられた。

私たちの信仰生活のどんな真っ暗な中でも、「夜が明けそめた時、
イエスは岸べに」立っておられる。そして主の方から、朝の食事を
振る舞って下さる。主の愛とあわれみは尽きる事がない。

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主の愛は、こちらがどんな状態であれ、不変だ。主のご性質が愛だ
から。なかなかそれがわからず自分の方から遠ざかってしまう。資
格の全く無い者に与えられるのがあわれみだ。主のあわれみは尽き
ることがない。今日も「さあ来て、朝の食事をしなさい」と。