2020年02月27日(木)

「なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです」ローマ8:2



パウロは、善を行ないたいのに、逆に悪を行なうと言い、自分には
悪が宿っているという原理を見ると言った。原理=法則で、法則と
は例外が決して無い。一つでも例外があれば法則ではない。私たち
の中に法則があると言う。「善をしたいと願うのに、悪が宿ってい
る」事だ。パウロは新生し、善をしたい願いがあった。

信仰者には、神に喜ばれ、神の御心を行ないたいという願いがある。
新しい命があるからだ。それは新しい性質を宿し、神に従いたいと
願う。私たちもパウロと同様、神に喜ばれる事を行ないたい。とこ
ろが、願いがあるが、それに反する法則が存在する。「悪が宿って
いるという原理」だ。善をしたいのに、悪に走ってしまう。

これにはどうやっても逆らえない。どんなに物を上に投げたとして
も、引力の法則が働いているので、物は必ず下に落ちる。これは法
則でどうにもできない。自分の力で良い行ないをして、しばらくは
持つが、辛くなって必ず落ちて行く。神を喜ばせる事ができない。
それを徹底的に経験したパウロは「私は惨めな人間、誰がこの死の
からだから救い出してくれるのか」と叫んだ。

「誰が」と言い、自力では絶対的に不可能だと悟った。その時に主
を仰ぎ、解決を見た。主は私たちを、「命の御霊の原理」の中に置
く事によって、罪と死の原理も現存するが、そこから解放して下さ
った。死んだ鳥は必ず下に落ちるが、命のある鳥は大空を駆け上る。
命の御霊によって、肉に打ち勝ち、善を行なって行ける。
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主の十字架によって罪を赦されてからの方が、罪を意識し罪が大き
く迫ってくる。律法によっては絶対に救われないと認めさせられる。
救いがただ主の十字架の恵みによるとは、なんと感謝な事だろう。