2020年08月29日(土)

「あなたの神、主の命令を守って、その道に歩み、主を恐れなさい。 あなたの神、主が、あなたを良い地に導き入れようとしておられる からである」申命記8:7


エジプトを出たイスラエルの民は、主が約束して下さった乳と蜜の
流れる地カナンを目指した。その目指す地に入ってしまえば、信仰
は必要無いのかというと、そうではない。良い地に入って、食べて
満ち足りた後も、「主の命令を守って、その道に歩み、主を恐れな
さい」と。主を信じて生きるのは、何かを貰うためではなく、それ
自体が目的だからだ。

ある婦人が子供が欲しくて、祈りに祈って、不妊治療にも通ってい
た。どうしても欲しい、余りにも強烈な願望に、ある時、神から恵
みを奪い取ろうとまでしている自分の姿に、愕然とした。これなら
目的さえ果たされ、手に入るなら、手段は何でも良くなってしまう。
「ひれ伏して私を拝むなら、これを全部あげよう」とのサタンでも
いい事になってしまう。恐ろしい自分の姿に、涙と共に悔い改めて、
自分自身を明け渡した。

しばしば間違ってしまう。信仰を、自分が良く生きるための、又、
何かを得るための手段にすると、何もかもが的をはずしてしまう事
になる。自分の生きがいの手段、喜びを得るための手段、問題解決
の手段、それなら、自分の思い通り、期待通りでない時に必ずつま
ずいて、失望し、神から離れる事になる。

私たちをひとり子を与えて下さったほどに愛して下さった、この主
を礼拝して生きること、これが目的だ。何かを与えられようと、与
えられまいと、又、取られようと、主ご自身を信じて生きる事、主
を喜ぶ事、このために生きている。

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信じる目的を間違ってしまうと、いつか必ず失望する。順調に行っ
ている間は良いが、逆境になった途端、こんなはずではないと、つ
まずいてしまう。自分の思い描いた人生と全く異なるからだ。その
時こそ、信仰が試されている。信じる歩みへと導かれている。