2023年11月28日(火)

「そこで、彼を黙らせようと、おおぜいでたしなめたが、彼はます ます、『ダビデの子よ。私をあわれんでください。』と叫び立て た。」マルコ10:48



目の見えないバルテマイは、人にあわれみを求め、物乞いをして生
きていた。当時では、目の障がいゆえに、自立できず、人に依存し
て生きて行くしかなかった。人が施してくれるもので、生活してい
た。人が頼みであった。主が、エリコに来られた時、それまで耳で
数々の噂を聞いていたこの方に、大声で必死に叫び求めた。

「私をあわれんで下さい」と。この方に求めた。周囲に制せられる
と、黙るどころか、ますます叫び立てた。諦めるなど無かった。切
に主に求め続けた。すると主は立ち止まられ、呼ぶようにと言われ
た。その時、彼は上着を捨てて、すぐに主のもとへ行った。上着は
生きて行く上の、無くてはならぬ、非常に貴重な必需品であった。

その大切な上着を捨てて、主だけを求めて来た彼に、「何をして欲
しいのか」と問われた。すると「目が見えるようになることです」
と答えた。その彼に、主は「行きなさい」と言われた。あなたは、
もう自分の足で立てる、一人立ちできると。あなたの信仰があなた
を救ったと。すると、すぐ彼の目は見えるようになった。

先に見えて、「行きなさい」ではなく、「行きなさい」の後で、目
が開いた。主は、私の人生を自分の足で立ち、歩むようにして下さ
る。私たちも、人依存でいるかも知れない。何かあると人を責め、
責任を転嫁し、自分で責任を取らない。人がああしてくれない、だ
から私は不幸せ。それなら、すべて相手次第になってしまう。

しかし主への「信仰」は私たちを真っ直ぐに立たせてくれる。主を
見上げ、信じ、主に期待し、主への信頼によって歩むようにされ
る。彼は人依存から、主への信頼に転換、自分の足で立ち、生涯、
主に従って行った。
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自分の足で立っていると思っても何かに寄りかかっている。歩みの
全工程に主を認め、頼るべき方に頼って生きよう。主はしっかりと
立たせてくださる。主の前に自分の足で立ち応答していこう。