2025年10月29日(水)

「・・神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることができない ような試練に会わせるようなことはなさいません・・試練とともに、 脱出の道も備えてくださいます。」Tコリント10:13


私たちは、時に試練が臨む。突如の経済的苦境や、事故、病気、入
試不合格、畑の不作、対人関係での悩み・・心辛く、思い煩い、否定
的な方向へ向かうだろうか。又、試練が続くと、どうだろう。周囲
は幸せそうで、楽しげだ。「何で自分だけ?」と。自分は祝福され
ていないと思い、寂しくなり、心屈折させてしまう。神は愛とある
が、他者にはそうだが、自分は愛されているのか?と疑う。

悪魔のささやきに乗せられ、引きずられ、落ち込んでしまう。その
時の鍵が「主の言葉」だ。自分の思いは、すぐ狡猾な悪魔にやられ
てしまう。御言葉が力だ。「主はその愛する者を懲らしめ」と。
「受け入れるすべての子に、むちを加えられる」とあり、試練は主
に愛され、受け入れられている証拠だ。

「懲らしめは、主の愛」で、逆に懲らしめが無いなら、私生児であ
って、本当の子ではない、と言っている。懲らしめが無い方が、心
配だ。試練によって、まず主に拠りすがる。「逆境の時の神頼み、
順境の時の神離れ」だ。順境だと、自分の力で生きて行けるので、
主を頼らない。主を離れてしまう。どうだろう。経験するだろうか。

試練は痛く、苦しく、辛いが、逃げずに、真正面から受け取るなら、
へりくだらされ、成長させられる。そして主の似姿へと変えられて
行く。"愛、喜び、平安、寛容、親切・・"だ。試練は、信仰の岐路に
立たされる。主からの愛の訓練と、受け入れられるよう祈ろう。
受け入れる事が難しいので祈ろう。耐えられない試練は無く、脱出
の道が備えられている。
------------
思い通りであったらいつも主に愛されていると思えるが、試練が臨
むと原因を探し、自分を責めてく。主を仰ぎ、主の取り扱いの目的
を信じて、平安を受け取ろう。主を頼り主と近くされて試練を抜け
よう。