2005年01月29日(土)

「隠れている私の罪をお赦しください」(詩編19:12)

信仰生活で、年数がたつと簡単に聖書知識は増して行く。祈りの言葉も豊富になり、外側は幾らでもそれらしく出来る。内と外が違って来る。内実が無いのに、外側は良いクリスチャンに出来る。しかしダビデは隠れている罪を赦されるよう、傲慢の罪からの守りを祈った時、神の御前に正直であった。人に良く見られたいがため、外側を良く見せてしまうか。この誘惑は強い。内と外を一致するためには、絶えざる神の力が必要だ。神の御前に正直である事が必要だ。都合の悪い事を隠す事なく、おおうことなく、常に神の御前に自分をさらけ出し祈って行くのだ。偽善から守られ、実質の伴った信仰生活へと導かれる。自分の力で信仰の歩みは不可能。自らを明け渡して行くなら、内住の御霊が内側からキリストの形へと形造って行って下さる。
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人からよく見られたいという、肉の誘惑と攻撃は凄まじい。認識しておく事は大切だ。神の前でなく、人の前に生きてしまう。人が神になり、取り繕い演技する。それは神から全く離れており、ますます離れて行く。ストレートな罪でないので気づかない偽りの罪だ。正直であり続けるためにも、神に拠り頼む必要がある。