2006年06月28日(水)

「目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません」Tヨハネ4:20

こんな言葉がある。「自分が一番嫌い
な人を愛する事でしか、イエスを愛す
る事はできない」。私達は、しばしば
欺かれていて気づかない。あの人は嫌い
だが、自分は神は大好きで愛していると
思っている。しかし、それはあり得ない
と神が言われる。まずその欺瞞に気づく
事から始まる。CSルイスは言う。「愛
するという事は傷を受けやすいものだ。
何かを愛すれば、あなたの心は苦しみ、
壊れてしまうかもしれない。もしあなた
が傷つきたくないのなら、動物さえも慕
ってはいけない。何とも関わりを持たず、
自我という棺の中に鍵をかけて、しまい
込むのだ。天国以外で愛の危険から完全
に逃れ得るところは地獄だけだ」愛する
とは必ずリスクを伴う。心が傷つく。主
も、身も心もズタズタに引き裂かれ、傷
だらけになられたが、自分の命に換えて
も、愛する事を止められなかった。私達
の歩む基準は、世の基準とは違う。まず
「私たちが神を愛したのではなく神が愛
し」て下さった、ここに立ち、十字架上
で身も心も裂かれ、血まみれでぼろぼろ
になって、愛し抜いて下さった主のもと
に行こう。
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愛のひとかけらも、ひとしずくも無い事
を認める時、祝福は始まる。愛は神から
出ている。自分には無い。徹底して無い
事を認める時に、神が注いで下さってい
る愛に気づく。「聖霊によって、神の愛
が私たちの心に注がれているからです」