2006年11月26日(日)

『「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」すると、すぐさま彼は見えるようになり』マルコ10:52

自分にとって、主の位置関係はどう
だろう。主は大切なものが沢山ある
内の一つなのか。自分にとって、信
仰は応接間の飾りなのか。考えてみ
よう。バルテマイが「目が見えるよ
うになる事」を願った。それを主は
「あなたの信仰」と言われた。当時
は福祉もなく、盲目であるとは社会
生活が不可能で、生ける屍のような
存在だった。人の憐れみに頼り、
乞食をして生きる、惨めで哀れで、
どんなにプライドが傷ついた事だろ
う。そんな中で、彼は自分の人生に
神がどうしても必要である事を認め
たのだ。神の憐れみが無ければ、こ
れから先、ずっとこのままだ。心底
惨めで哀れな者である事を認めて、
プライドも捨てて、神に憐れみを叫
び求めた。答えて下さると信じて、
なりふり構わず、阻止されても諦め
ず叫び続けた。主はこれを「信仰」
だと言われた。憐れんで下さり、答
えて下さった。神は心からの叫びに
必ず答えて下さる。私達はどうだろう。
求めがあるだろうか。信仰は応接
間の飾りなのか。正直に主に向き
合う事から始まる。
・・・・・・・・・・・・
何一つ出来ない彼が、憐れみを求めて
叫ぶことができた。それだけができた。
神は何も求めておられない。ただ神に
叫び求める「求め」だけを待っておら
れる。自分に求めがあるかどうかだけだ。