2007年07月29日(日)

「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」マタイ16:24

富んだ青年は、主に従おうとは思っていた
が、自分が愛し、慕う、肉の部分が捨てら
れず、主から去って行った。信仰生活とは、
どれほど聖書を知っているか、奉仕し、善
行をしているか、又、献金しているかでは
ない。肉の欲望や肉の思いが、主の御心と
全く相容れない事を知り、人間的な思いか
ら離れ、主の喜ばれる事、主に受け入れら
れる事、主の御心を求めて行く事だ。「わ
たしの思いは、あなたがたの思いと異なり」
と言われるように、主の御心は、自分の思
いと、大幅に異なっている。主の死の事を
聞いたペテロが、そんな事が起こるはずが
ないと言った時に「下がれ。サタン」と言
われた。「わたしの邪魔をするものだ」と。
ペテロの人間的思い、肉の思いはサタンか
ら来ていた。それゆえ「自分を捨て」ない
限り、私達は反対方向に間違ってしまう。
なぜなら、人間的な目で見ると、目の前の
事が正しい、妥当としか見えない。正しい
と思っている自分が、実は肉の中にいるか
らだ。正しいとしか見えないので、どこま
でも肉の思いで神を信じようとする。肉の
手で神をつかもうとする。だから、神がわ
からない。正しいと思っている自分に頼ら
なくなった時に、初めて神がわかる。自分
の肉に一切頼れなくなった時に、神を見い
出す。盲人や長血の女や姦淫の女のように、
何の手立ても無い時にこそ、主に出会う。
・・・・・・・
自分が正しいと思い込んでいる時、肉の
中だ。すべての物事がその目でしか見え
ず、神が見えない。間違っている自分に
気づく時、神が見える。光の中だ