2007年11月28日(水)

「だれでも、わたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」マタイ16:24

誰かに対する恨み、つらみ、憎しみ
があるだろうか。それが長い間、解
決されていないだろうか。そういう
感情が巣くってしまったのは、それ
なりの事があったのだろう。しかし、
最も苦しいのは自分自身だ。相手で
はない。その相手が頭をよぎるだけ
で悶々状態だ。又、家庭や職場の対
人関係において、思い通りにならな
い相手を変えようとして、不毛の戦
いをする。相手は決して変わらない。
自分が力尽きてしまう事になる。神
の御心は「自分を捨て」「自分に死
に」だ。自分サイドから、自分の思
いで相手を見るなら、恨みつらみが
当然になる。どう動いてもそうしか
見えず、そこから出られない。自我
にがんじがらめだ。ある人がどうし
ても愛せず、嫌いで関わりたくない
相手に、試練が臨んだ。祈りを要請
されるが、どうしても祈れない。愛
したくない。悶々状態だが、どうに
もならず、自分を捨てる決心をした。
神にそのままの自分を明け渡した。
すると、不思議だが、自分の思いか
ら離れ相手の対場に立てた。相手の
立場に立って見る事ができた。その
状況で、そうせざるを得なかった心
持ちに思いが至った。自然に赦す事
ができた。御霊の働きだ。自分に死
ぬ時、相手が見えるようになる。自
我で一杯の間は何も見えず、信仰も
働かない。今、もしこの状態なら、
「心を変えて下さって0Kです」と自
分自身を主に持って行こう。実は好き
になりたくない自我から、自由にされる。
・・・・・・・・・
人にはできないことが、神にはできる。
奇跡をされる。自分にはできませんと
申し上げよう。「本音は愛したくないが、
主が私を用いて愛されるなら了承します」
が、明け渡す事だ。主がみわざをされる。