2008年04月26日(土)

「それで主は、あなたを苦しめ、飢えさせて・・マナを食べさせられた。それは、人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるためであった」申命記8:3

 
「主は、苦しめ、飢えさせ」とある。
主が苦しめ飢えさせると。信仰人生で
悩み苦しみに会う。すると信仰者は戸
惑い、いぶかる。祝福して下さるはず
ではないのか、病気にならず、いつも
健康で、経済的には満たされ、良いも
ので満たして下さるのではないのか。
最善のものを下さるはずでは。病気か
ら奇跡的に救われる人もいれば、病気
のままの人々もいる。富んでいる人も
いれば、極度に貧しい人もいる。しか
し、身体的、物質的、霊的に、あなた
が飢え、苦しむ時は幸いだと言われる。
なぜなら、その時こそ、神を知り、天
からのマナを食する恵みにあずかるか
らだ。対人関係、経済的、環境的に
「安定」している時、人は神を求めな
い。その「安定」が崩される時、初め
て目に見えないものに目を向け、見え
ないものを求め出す。ある夫婦が、生
まれた子供に命に関わる、重度障がい
がある事が判明した時、絶望の淵に突
き落とされた。しかしその厳しい苦悩
は、目に見えないものに目を向けさせ
て行った。結果的に神に出会う事がで
き、感謝しかないと。もしこの苦しみ
が無かったら、神に目を向ける事など
生涯無かったであろうと。試練の時こ
そ神を真に知る時だ。御言葉がいのち
そのものである事を経験的に知り、実
感できる。       
・・・・・・・・・
何の問題も無い時、順風の時、人は目
に見えないものに、目を向ける事はな
い。見えるところを生きて行く。行き詰ま
りの中で真に主に出会う。試練は、キリ
ストのかたちに変えられて行くために
ある。