2025年08月10日(日)

「主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、 むちを加えられるからである」へブル12:4


ある人が証しした。「教会へ行くのは嫌でなく、聖書の学びも
抵抗なく、学んでいたが、長い間、なかなかわかりませんでし
た。やっと信じることが出来て、でもその後も、神様を知るのに、
又、長い時間がかかりました。砕かれないと、神様はわからな
いですねえ。大きな試練が来て、砕かれました。

でも感謝で、初めて神様を、頭でなく、霊的に知れました。今は、
心から喜びが湧いて来て、感謝でならないです」と。救われてか
らも、自分は何だか変わらない、神様が漠然としている、という
のは、砕かれていないところにあるだろうか。強固な私たちの
自我を砕くために、主は試練や困難を通される。この人さえい
なければと思う、嫌な相手が目の前に送られる。

対人関係で悩み、苦しくて、職場を変えるのだが、又、同じよう
な相手がいる。どうして、この人なのかという相手を、職場に、
近隣に、周囲に置かれる。この相手以外なら、上手くやって行
けるのに、と自己正当化するのだが、辛く苦しいばかりだ。同じ
事が、繰り返される事により、もしかして、これは自分の問題か?
と考え始める。

そして状況ではなく、相手ではなく、「主よ、教えて下さい。私を
変えたいのなら、変えて下さい」の祈りへと展開して行く。その
時に、微動だにしなかった事態が、動いて行く。主は成長させ
ようと、砕いて下さる。その時、悶々が、喜びと平安に変えられ
て行く。今、目の前の出来事は、取り扱いだろうか。祈ろう。必
ず平安の落とし所へと導かれる。

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主は思い通りにならない事態を、目の前に置かれる。自我は思
い通りにしたくて、あらがう。自我は強烈く、自分でどうにもなら
ない。主が砕いて下さる。主のあわれみだ。砕かれる時に、霊
の目が開かれて行く。