2009年04月07日(火)

「あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ」マタイ4:10



主を信じる人々がクリスチャンだが、一体、自分は「何のために」信仰しているのか、立ち止まって、よく考えてみる必要がある。

もし、信仰が、自分が求めている何かを得るための「手段」なら、自分の欲しいものを得たなら、もう信仰は不要になる。

又、手段であるなら、何が何でも欲しければ、別に、他の手段でも良いわけだ。
サタンは、「私を礼拝するなら、すべてを与えよう」と言った。

欲しいものを何でも上げるよと、その誘惑に乗ってしまう。
目的のものを得たいだけであり、別に誰がくれようと、構わないのだから。

しかし、主にとっては、御父を礼拝する事は、手段でなく「目的」であられた。このところが肝心だ。

もし信仰が、より良い人生とか、より高尚な生活、道徳的生活、人格者になること、心の満たしや自己実現のための手段だとするなら、神が自分の思い通りに、期待通りに動いてくれなかったら、遅かれ早かれ必ず失望する。

神の愛を疑い、神から離れ去る事になる。形だけ礼拝していても、心には何の喜びもない。実質、得るものが何も無いのだから。

しかし、神を神として信じ、神を崇め、何を得ようと得まいと、神との交わりを目的として歩むなら、何があっても平安と喜びを失う事はない。

状況は関係ない。あなたは「何のために」信仰しているだろう?何かを得るための手段だろうか。
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神様は手段でもなければ、有意義な自己満足の対象でもない。神様は礼拝を、献げるべきお方だ。私を造られ、そして私の将来の全てを支配しておられる。自分の目的ばかりで信仰が右往左往していないだろうか。