2010年06月10日(木)

「神のわざがこの人に現われるためです」ヨハネ9:3



人には因果応報の価値観があり、何かマイナスの事、悪い事が起こると、バチが当たった、罪過の結果だと考える。この時の弟子たちも、盲目に生まれた原因は、この人か、親が罪を犯したからと考えた。弟子たちはその事の「原因」に視点が
あった。

しかし主は、「目的」に目を向けられ「罪のためではない、神のわざが現れるため」と答えられた。そして、つばきで泥を作り、盲人の目に塗って、シロアムの池で洗うように言われた。言われた通りに従うと、彼は見えるようになった。この奇跡が行なわれたのは、安息日であったので、パリサイ人たちは、律法に反する事だと、彼を呼び出した。

その時、彼は「私は今見えるのです」と言った。「私は盲目であったのに、今は見える」と。「見える」これは誰も動かす事のできない事実であり、現実だ。誰も何も言えず、反論出来ない。大きな力ある証しだ。私たちは「証し」というと難しく大仰に考え、自分になどとても出来ないと思う。しかし、単純に事実を
言えば良い。「私は救われた」「喜びがある」「平安がある」これこそ力ある証しだ。

主は、原因でなく目的に目を転じさせられる。どのような不都合な事、負の事、悪い事が起ころうと、そこに神の栄光を現わして下さる。今、目の前に悪い事が起きていたなら、「神のわざ」が現れるためだ。信仰に立とう。神の栄光が拝することができる。
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悪いことが怒ると何故だろう、何処が悪かったのだろうと心が定まらない。そこで主が事をなさる目的があるから、との視点に立てたなら、状況の中で心は大きく変わる。約束のみことばを信仰を持って聞いて行こう。神のわざがそこに現れるためだ。