2010年10月11日(月)

「今ではあなたがたが恥じているそのようなものから、何か良い実を得たでしょうか。それらのものの行き着くところは死です」ローマ6:21


ある家庭で、家族会議を始めた。自分では全くの正論だと思い、一人が意見を言った。父親がやはり正論だと思い、それに反対した。すると兄がそれに反論し、当事者の肩を持った。すると、母親が全く別の意見を言い出した。皆が自分こそが正しいと思っているので、どんどん言い合いはエスカレートして、やがて争いになった。

その場に全く関係の無い過去の事、別の問題などが飛び交い、収拾がつかなくなり、切り上げた。怒りや攻撃心やいら立ちで全く平安が無かった。皆が平安失せ、暗たんたる気持ちになった。その後、それぞれ冷静になり、考えた。各々が、神の御前に悔い改めを与えられ、互いに謝罪し合った。その時、自分の思いでなく、神の御思いは何かに、視点を向ける事が出来た。

御霊の導きを求め、相手の気持ちを思いやり、再度話し合った。すると、一つ思いにされ、一致して平安の内に事態の決定に導かれた。そこに平安と潤いが来た。御霊の支配があった。「肉の思いは死」の通り、自分の思いを通して行くと、そこには何の実も無い。皆無だ。暗たんたる気持ちだけが残る。「自分は正しい」
こそ、まさに肉の思いであり、その行き着く所は死だ。「御霊の思いはいのちと平安」、神に視点を向けよう。いつもいのちと平安に導かれる。
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自分が正しいと思う時こそ、相手を攻撃する事にためらいがなくなる。御言葉の通り、それは死の選択だ。いのちと平安の御霊の実を結ぶ事になるのか、肉が勢いづく時に気づけ立ち止れますように。