2011年02月08日(火)

「敬虔を利得の手段と考えている人たちの間には、絶え間ない紛争が生じるのです。しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です」Tテモテ6:5


「敬虔を利得の手段」とするということは、神様のためにする行ないを、人に褒められるためにすることだ。人からの賞賛を得るために、良い行ないをする。人から認められたい、評価されたい一心だ。それに反し、「満ち足りる心を伴う敬虔」とは、心が御霊によって満たされているので、人からの賞賛や、評価、人によって満たされる必要がない。

自らの心は、何によって満たされているだろう。人からの賞賛、評価で心を満たそうとすると、絶え間のない紛争が生じる。絶えず人の目を気にし、自分が少しでも高く評価されようとするので、低められたと感じるや、傷つけた相手を憎み、反撃し、争いを引き起こす。人が自分をどう見ているかが、すべてであり、それが気になって仕方がない。

そのため疑心暗鬼になる。評価されているか、どうかがいつも不安だ。心に平安が無く、不安定で、揺れ動く。プライドが高いので、些細な事で傷つき、不幸の原因を相手と環境のせいにする。しかし、そこに何の解決もない。満ち足りる心は、御霊から来る。

自らの高ぶりと自己中心を認め、明け渡すなら、御霊は力強く導かれる。御霊の導きに一歩〃従って行く時、御霊に支配されて行く。従って行く時、御霊の喜びが心に臨む。状況に関係無く、自分には心に満足がある。状況や人がどうであれ、自分は主によって幸せであり、平安に歩める。この平安は何にも代えられない。
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私達はいつも誰かから価値を認められたい者だ。それを人から得ようとするから迷い疲れる。人の評価で満足する所を認め、今も変わらず価値のある者として見て下さっている神様に感謝し平安を受けよう。