2011年08月11日(木)

「あなたがたは、私たちの中で制約を受けているのではなく、自分の心で自分を窮屈にしているのです」Uコリント6:12



パウロは、コリントの人々への愛情ゆえに、肉の行ないを戒めた。しかし、人々は、パウロに対して心を閉ざしていたために、受け取れなかった。人々が心を開きさえすれば、パウロの愛がわかったはずだ。私たちは、自分で自分の心を狭めて行く。人から狭められるのでなく、自分で狭めて行く。自分の罪を認めなかったり、御霊の導きを無視したり、なおざりにしたり、御霊の促しを拒み続けると、心が固くなってしまう。

すると、ますます人にも耳を傾ける事ができなくなり、自我の殻にとじこもり、批判、非難、攻撃的になり、誰も自分をわかってくれないとの自己憐憫に陥る。前向き、信仰的な心の態度が失せ、心を屈折させて行く。ネガティブな思いに支配されてしまう。そうすると、分裂や不一致を引き起こして行く。

救いに至る悔い改めへと導かれるには、必ず自分の「罪」に、向き合わなくてはならない。しかし、人は自分の非を認めたくない。人に悩みの相談をするのも、解決のためではなく、自分の気持ちに同意して欲しい。気持ちを楽にしたいだけだ。しかし御言葉は、真の解決を与えるために、真実を明らかにする。
だが、自分の真の姿は見たくない、余りにも痛い。だから耳を閉じる。しかし平安と喜びへの道は心を開くことだ。どんなに痛くても耳を傾け、御霊の導きに従う事だ。自分で心を窮屈にしていないだろうか。
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見たくない罪や弱さも御言葉により光が当てられ認めるところから解放されて行く。心を閉ざし、全てをそのままにしながら窮屈にあれこれと思い煩うのは、やめよう。